こころの子育て・その5

河合隼雄さん『こころの子育て』より


「自己実現」という言葉はいますごく流行っていて、いろんなところで使われていますね。しかしぼくに言わせれば、あれは自己実現でもなんでもありません。ぼくはそれは「自我実現」か「利己実現」だと言っているんです。…「自我実現」も大事です。……お店を開いてがんばるとか、好きな仕事で世の中で認められるとかね。でもそれは「自我実現」なんです。それはまだ大したことではない。小さい小さい「私」を実現しようとしているだけということは、わかっていないといけない。


自己実現というものは、つねに自我の崩壊とスレスレのところにあるんです。自我が築いたものの延長だったら、それは自我実現でしかない。それとはまったく違うことが起こってきて、自我を破壊するような力がどこかで働く。自我が一度死んで生まれ変わるような「死と再生」というテーマが、必ずそこには働きます。だから大変なんです。自我が再生できない可能性もあるから。


ユングは、人間は人生の前半は自我実現をめざし、後半に自己実現に取り組むのだと、わりと図式的に言っています。自己実現は、そんなに早くからできるはずがない、年をとってからのお楽しみなんだ、というわけですね。


ぼくは子育てほどおもしろい「自己実現」はないと思います。「子育ては自己実現だ」というのは、子育てはこころも身体も、つまり人間全体を使わないとできないからです。


自我にとってはとても不可解なんだけど、自分のところにいきなりやってきたものを自分の運命としてガッチリ受けとめて、それをどう生きるか、なんです。「どうしてこんな子なの」じゃなくて、「こんな子とどう生きるか」と考えるのが自己実現です。思うようにならない子どもを受け容れるのが自己実現だ、といってもいいです。だから、すごく宗教的なものと関係してきます。
そこには思いもよらなかったことや、嫌なこと、わけのわからないことが入ってきます。そういうときは、「あいつが悪い」「こいつが悪い」と言って逃げてしまいがちです。でもそのときに「起こってきたことは自分のことだ」とはっきり受けとめることが、自己実現の第一歩です。子育てをしていると、「自分」というのは、自分が知っているよりもはるかに不可解で、認めたくないような要素がたくさんあることがわかってくる。それを自分のこととして受け容れるのは恐ろしいし、苦しい。しかしそういうそれまでこころの中に潜んでいた要素をちゃんと見つめて、それを使いものになるようにするのが、「自己実現」です。できることならやめたいというくらいのものが「自己実現」なんです。


それと自己実現には犠牲がつきものです。「ひとつのことをする」ということは、「あることをしない」ということですから。たとえば、子どもとつきあう時間を大事にしようとすれば、自分のやりたいことをする時間を、ある程度捨てなければならない。そのとき自分が何を犠牲にしているか、できる限り意識するのは、ものすごい大事だと思います。そしてそれこそが自己実現なんだとわかっていることです。でないとわけのわからないイライラがたまってくるんです。…
犠牲というと何かマイナスの感じがしますが、その意味をほんとに理解するときは、そこに深い喜びが生じます。意味がわからずに嫌々するときは、不必要に疲れたり、腹が立ったりするものです。「育児のために自分の仕事が犠牲になる」と父親も母親も考え、犠牲の押しつけあいをしていると、腹が立つばかりですが、その意味がわかると、そこに楽しみや喜びを見いだせるものです。


自己実現を本気で考えたら、自分が好きなことをしているだけではダメで、他人との関係を考えざるを得なくなってくる、ということもあります。だれかを好きになってその人のために生命を捨てたいと思ったり、自分は食べなくても子どもに食べさせたいと思うのは、自分が何か得たり、やったりする以上に、他人のことを考えているわけでず。だから、自己実現を本気で考えだしたら、それは最終的には「世界」を考えることになります。そして、結局それは「楽しさ」をもたらします。


「自己実現」はそれができたから一生それでいける、というものではありません。ユングはいつも「自己実現の過程」と言っていました。「個性化」とも言っています。結果ではなくてプロセスだということです。
人は「その人になる」という過程を一生ずっと歩み続けていくんです。そして自分の歩んでいる道が自己実現に通じているかどうか。それは、歩き始めてみてわかることの方が多いと思います。それでどこをどう軌道修正するかしないか、ひとりひとり、みんな違います。それは自分自身に聞いて決めていかなければ仕方がない。まさに自己実現ですから。

                                                                          
河合隼雄 『こころの子育て』 朝日新聞社

  • 最終更新:2008-12-11 09:46:21

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード