はやし浩司さんの子育て論

親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。
廊下ですれ違っても、互いに顔をそむける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。
「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。
今、そんな親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、
あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。


 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。
狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。


 法句経にこんな話がのっている。
ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。
それに答えて釈迦は、こう言う。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。
「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。


 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。
しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。
私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。


どんな子どもにも、一つや、二つ、
三つや、四つ。五つや、六つ、
問題がある。問題のない子どもなど、いない。


問題は、問題があることではない。
問題は、あなたが、それを、どこまで受け入れ、
どこまで許すかということ。そして、それを、
どこまで忘れるかということ。
親としての愛の深さは、その度量の広さで決まる。


いつか、あなたの子どもも、
あなたから巣立つときが、やってくる。
必ず、やってくる。
そのとき、「子どもを信じきった」という思い、
「守りきった」という思い、
その思いが、あなたの心の中で、
さん然と輝き始める。


人間の価値は学齢などではない。
何をしたか、ということだ。


(はやし浩司さん)



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  • 最終更新:2008-12-01 00:11:30

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