子どもと悪

河合隼雄さんの本 『子どもと悪』より (順不同。小見出しは編者)

《自立と悪》
大人が「悪」と見なしていることを[子どもが]敢えてするのは、大人に対する一種の宣戦布告のようなものである。「大人の言うとおりに生きているのではないぞ」という表現である。大人になって自分の子ども時代を振り返ってみると、自立の契機として何らかの意味での「悪」が関連していたことに気づく人は多いのではなかろうか。これはもちろん危険なことである。下手をすると、まったくの悪の道への転落につながるだろう。しかし、危険のない意味あることなど、めったにないと言うべきだろう。

自立の意志は人間の心のなかから湧きあがってくる。・・(略)・・それまで安泰な生活を支えてくれた支柱を、何がなんでも破壊したい、という形でそれは顕れてくる。そして、それは時に生死を賭ける事にさえなる。ここで、安泰な世界を「善」とすれば、それを破るものは「悪」ということになり、この図式に従って言えば、自立は何らかの悪によってはじまるとさえ言える。そして、その「悪」がそのままの悪に留まってしまうのか、新しい秩序のなかに組み込まれていくのかは、その本人の努力が一番重要だが、それを取りまくいろいろな条件によって、規定されることになる。


《根源悪》
根源悪と呼びたい悪[「悪のささやき」]は、いつでも人間の心をとらえようとしていることを、われわれは忘れてはならない。・・(略)・・悪が一定の破壊の度合いをこえるときは、取り返しがつかないことを、人間は知っていなくてはならない。そして、そのような可能性を秘めた根源悪は、思いがけないときに、ひょっと顔を出すのだ。そして、後から考えると何とも弁解のしようがない状態で、人間はそれに動かされてしまう。このことをよく心得ていると、大切なときに踏み止まることができる。

大人は子どもに根源悪の恐ろしさを知らせ、それと戦うことを教えねばならない。時によっては厳しい叱責も必要であろう。しかし、そのことと子どもとの関係を断つこと、つまり悪人としての子どもを排除してしまうこととは、別のことなのである。自分自身も人間としての限界をもった存在であるという自覚が、子どもたちとの関係をつなぐものとして役立つのである。

根源悪は厳しく拒否しなくてはならない。にもかかわらずそれを犯した人間と関係を修復すること、そこに愛ということがはたらくのではなかろうか。悪と関係なく、よいことずくめの人と関係をもつのは当たり前で、愛とか何とか言う必要はない。「にもかかわらず」というときに愛のはたらきがある。


《自立と秘密、自立と依存》
秘密は、それを持つことによって他人との間に「距離」を保つことができる。一心同体ではない。これは言いかえると、秘密を持つと、他人との間に「へだたり」が出来て、孤独に陥る、ということにもなる。秘密はまったく両刃の刃である。従って、秘密を持つ人が、それをどのように抱きかかえているかが重要な鍵となってくる。

幼年時代は親との一心同体的な関係が、子どもの支えとなっている。しかし、子どもがそこから自立していくにためには、その支えを壊す必要があり、そこに秘密の意義が生じてくる。とは言っても、これは相当な危険を伴うものである。

自立も結構だが、単純に考えると、自立と依存とを完全な対立概念として捉え、依存を拒否すればするほど自立的である、というスローガンができあがる。これはスローガンとしては論理的で強力だが、およそ実態と合わない。何にも依存せずにいる人間などいない。空気や土や太陽に依存せずに生きることができるだろうか。

人間が自立するということは、自分が何にどの程度依存しているかをはっきりと認識し、それを踏まえて自分のできる限りにおいて自立的に生きることである。しかし、「自立」ということが先にスローガン的に意識されると、依存はすべて拒否したくなる。


《スローガン、常識、ルール、善意》
どのような正しいことでもスローガンになると硬直する。硬直した思考は単純に二者択一的になる。厳しくするか、やさしくするか。前者をとることは後者を否定することだと考える。これは機械のすることで、人間のすることではない。人間が機械ではなく、生きているというのは、対立するかのように見える厳しさとやさしさを、いかにして自分という存在のなかで両立させていくかという努力を続けることである。

常識というものは、この世に生きていく上で必要ではあるが、恐ろしいものである。

ルールがあると、それを守らせればよいのだ、それによって善悪がはっきりと判断できる、などという簡単なことではなく、ルールをめぐって人間と人間がぶつかり合うチャンスが訪れてくる、ということである。ルールを盾にして人間が隠れるのではなく、ルールを手がかりとして、人間がそこにあらわにされるところが意義深い。

大人が善ということだけを仲介として子どもに接すると、大人→善→子ども、という一方向の動きに終わってしまう。(大人の)言葉は一方的に(子どもに)流れていくだけで、心の関係はむしろ切断されてしまう。

どうしてこうまで大人は子どもに善意の押しつけをするのだろう。基本的には、子ども自身の成長の可能性に信頼を置いて待っておればいいのに、それができない。なぜ、子どもを信頼できないのか。それは自分自身を信頼できないからである。


《不安と向き合う》
現代人は相当な不安をかかえて生きている。それは非常に深い。しかし、考えてみると人間はいつの時代でもそうだったと言えるのではなかろうか。不安は人間の生きていることの証拠かもしれない。人間の不安を解消してくれる存在として、神、仏などの超越存在がある。往事の人はそれによって相当な安定を得ていただろう。しかし、現代人は科学とテクノロジーの発達によって、日常生活は昔と比べものにならぬほど快適になったが、根源的不安に対しては、かえって無防備になっている。それに直面するのはきわめて恐ろしい、となると、何とか表面の安定にしがみつき、ともかくじっとしておられない気持ちの方は、子どもの方に投げかけてしまう。
各人がもう少しまともに不安と向き合うことによって、子どもに余計な重荷を背負わせることが少なくなるのではなかろうか。


出典 河合隼雄『子どもと悪』(岩波書店)

  • 最終更新:2010-01-09 10:54:14

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