親は代わってやれない

山口県周南(しゅうなん)市の長久寺(ちょうきゅうじ)住職、有国智光さん(51)は2年前、15歳の息子(遊雲)を小児がんで亡くした。。

  「この子が死んでしまうとはどういうことだろう」との思いで、はらわたがねじきれてしまいそうだったこともあります。そのとき、自分のつらさの実体を見つめようとしました。

 だれかを「かわいそう」というとき、自分は高みに立ったまま、安全圏にいる。相手のことを慈しんでいるようで、実は、自分がつらさを見たくない、ということではないでしょうか。私は、我が子を亡くす現実を認めるのが一番つらく、目をそらしていたのです。結局、大切にしていたのは自分自身のことと気づきました。

 我が子であろうとも代わってあげられない。私もまた、だれにも代わってもらえない唯一の存在。そんな宇宙的な孤独を受け入れていくしかありませんでした。

  彼のつらさは彼にしか分からない。だから「遊雲のつらさ」に寄り添うのではないのです。私の中に投げ込まれている私自身のつらさに寄り添うしかない。

 つらささえも楽しむ遊雲。じゃあ、父さんも同じことをしよう。子を失う父であることを楽しもう。子に先立たれる父として、のうのうと生きていこう。そう覚悟しました。

 遊雲よ、あなたはあなたの生を生きよ。父さんは父さんの生を生きる。そう思いました。その時にいのちを輝かせている遊雲として見えてきました。

  小さい悲しみはやがて消えていく。深い悲しみは私を育てる。大きな悲しみは慈しみにつながる――。そんなことを考えます。
          
                       朝日新聞 語る人10・3 より 抜粋

  • 最終更新:2008-12-14 21:34:50

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